仲山ひふみです。ブログはじめました。

 さてブログはじめました。
 前にも一度だけブログを開設したことがありましたがもう一年以上前に消してしまったので、なんだか初めてブログ開設したような気分で、緊張しています。
 ところでこの「初めて」のようであるという感覚、どうやら単なる錯覚という以上の意味を持っているように、特に現在のいろいろな騒ぎを見るにつけ思います。一般的利用者、というものの視点をとって考えてみると、この事態はよりはっきり見えてきます。僕のブログに関しては、google検索によって表出するネットの表面の世界においては、僕のブログとみなせるものはこれ以外に存在しないわけで、前から僕を知っているわけでない人にとってはパッと見る限りこのブログはこのブログの著者である僕が初めて開設したもののように見える、少なくともそれを疑う積極的な理由は無いものとして見えてしまうことでしょう。もちろんあくまでそれは「パッと見」すなわち一次情報における判断であり、その他の検索結果と照合してこのブログが二回目に開設されたものであることを知る人も出てくるかもしれませんが、ここで想定される一般的利用者は、まさに「一般的」に、あるブログページの書き手のパーソナリティや履歴を知る上でそこまでの労力は払わないと考えるのが自然でしょう。
 この事実は、インターネットという場所がいわゆる歴史の蓄積とか個人史的なものによって生み出されるアイデンティティ、またはそれを基盤にした人間的なコミュニケーションと呼ばれるもの全般と、いかに性質上対立しているかを明らかにするものと思えます。「顔」という記号は記号でありながら身体性を本性上含む、とドゥルーズ=ガタリが言っていますが、ネットには通常の生活空間とは違い、「顔」は無く、それ故潜在的な過去の包摂を行い同一性を示す「身体」は存在せず、その都度生まれなおす特異点的な「仮面」としてのアイコンが飛び交っています。(ノルベルト・ボルツは、微妙に違う文脈でですが、グーテンベルクの銀河系で「現在はイコンの時代へ回帰した」と整理します。)そして過剰なまでに「生ける現在」を強調し、それに強制的に巻き込んで他のものを見えづらくするような構造的機制、アーキテクチュラルな力が働いているのだと言えるのではないでしょうか。ネットにおいて「過去」が、消えるときはきれいさっぱり最初から無かったかのように消えてしまい、残るときは何年も前の物であってもまるで今まさに投稿されたかのように残っていること、それはネットの視覚的設計の問題として提起されうるものですらあるでしょう。ともあれ現状、消えたブログは僕のものであれ僕のことを書いた他人のものであれもうよみがえらないですし、過去ログ収納されたかつての僕のレスを閲覧することは難しいです。端的に言って、そのように消えてしまっている以上、「過去のネット上の僕」は「過去のネットの僕をネット上で観測していた人たちの記憶の中で加工され歪曲された僕」とは「一般的に」見れば完全に等価です。僕のように、ネットでの活動に労力を割いてきた人間にとって、この事実はそれなりに脅威であると言えます。積極的にアーカイブを残そうという意志を持ち、その場所を確保しなければ、「私」の存在は事実上無かったことにされる、それがネットであると。例えばこれが大学のレポートや学位論文の類であったとしたら、事情は全く逆であったでしょう。学生や教授が生み出す成果物のアーカイブ化は一般的な原則となっており、大学という場所にとってアーカイブへの誠実さが学問の誠実さであると言い換えても問題ないと思えるほどです(だからこそ逆に大学などその他公的な制度に属する機関では、書類=アーカイブの存在無しには存在が承認されないわけで、そこから不法滞在する移民の問題や福祉・社会保障の問題まで引き出せる)。しかしインターネットいう場所では、そもそも私がこのブログ上で「仲山ひふみ」と名乗り、その名前で検索した結果浮かび上がる「仲山ひふみ」なる人物と実在の上で同一なのかどうかは、前提として絶対的には保障されない。なぜならこのブログ上には単に「新規の」ユーザー名とIDが記載されているだけであり、「私」が、既にネット上で活動しているところの「仲山ひふみ」と同一人物であることを保障するどのようなIDも表示しないからであり、かろうじてtwitterでの「仲山ひふみ」がこのブログを自分が開設したとポストすることでそのような社会的IDチェックの代わりとなしているにすぎないのです。
 多少飛躍しますが、結論を述べればこういうことではないでしょうか。私たちはあまりにも現在という時間に縛り付けられ、脊髄反射的に生きることを習慣としてしまっている……そこでは「私たち」が生成し続け、決して「私」という過去は固定的に構成されえないのだ、と。例えば(というのはおかしいですがw)僕が2ch東スレでゼロアカ第四次関門開催の真っ最中に高校生コテハンとして登場したということすら、僕の知り合いのうち多くの人にもはや知られていなかったりします。そして初めて会った人に「仲山ひふみです」と自己紹介すると、検索して出てきた、叩き目的で作られた下品極まりない僕のなりすましによるコピペ文章(語尾が「でしゅ」とかついているやつですねw)を僕が書いたものと勘違いされたりとか普通にされる世の中になっており、まあアーカイブ化によるネット上での最低限の自己同一性の確保を急務であると感じるのには十分な事件でした。いや、ぶっちゃければ色々な告知とかするのにブログとかあったほうが便利なので使うというだけでもあるのですがw

 また、ツイッターは議論には向かない、という話題ももはや常識レベルになるまで繰り返し語られて来ましたが、そういった生成力の高い「現在的なメディア」とは別に、作品や事象への批評的検討や反省的議論に特化した場としての「過去的なメディア」、つまりブログという場を対置して確保する。これは既に旧メディアの感も強いブログ(あるいは個人サイト)というメディアの有効な再発見、メディアリサイクルとして悪くないのではとも思われます。ネットにおける表現手段の多様性の確保は、現在、過去というタームを用いてきたことからもわかるように、時間の多層性の確保を意味し、また単純な「私たち」「彼ら」に回収されない「私」「僕」など個人の存在を最低限保証していくための
抵抗のラインになっていくでしょう。そういう意味ではコメント欄炎上と言うのは示唆的で、本来ブログ的コミュニケーションとは時間性が異なる、「生ける現在」のコメントによってアーカイブとしてのブログが相対的に破壊されてしまうという事態が起きるわけです。ブログで考えられる「議論」の形式は、エントリ同士を最小単位として交わされるトラックバック形式で行われるのが望ましいでしょう。ツイッターなどによって現在的なコミュニケーションが十分に確保されている今だからこそ、そのような「過去的なメディア」の理想の元、最初からコメント欄を閉鎖しておくということも受け入れられやすいのではないかと思います。
 
 第一回目の投稿は以上です。僕の2ch時代やhihumiでtwitterアカウントを持っていた頃の経緯は、いずれまた記事として投稿することになると思います。
 
 第二回目は早速告知をすると思います。