「個人ブログ回帰」が真実だとすればそれは何を意味するか
久しぶりにブログを更新することにしました。といってもこれといって報告すべきことはないのですが。
(追記:最初にこの記事を投稿したときとは別の意図が生まれたので、タイトルを変更し内容も修正しています。あしからず。テーマはタイトルに掲げたとおり、いわゆる「個人ブログ回帰」についてです。以下の記事ではSNSからの撤退とインターネットの「別のしかたで」の利用方法に関する考察を行っています。)
見ての通り、もはやブログを持っているということの意味が怪しまれるほど更新頻度が低くなっているわけですが、これは僕だけでなく一般にブログからFacebookやTwitterなどのSNSに活動の軸足を移した全てのネットユーザーに共通して見られる現象なので、特に釈明する気はありません。もっともそういう「更新にずいぶん間が空いちゃいましたけど」というのは現在のブロゴスフィア(って今や存在するのかしら?)における典型的な書き出しの一つになってはいるので、その様式的な興趣を堪能する余裕があるならば、あえてそういう冗長な言葉の海に溺れていくのも良いかもしれません。無限の余白とインクが用意されたこの空間では、責任逃れの自己弁護もお節介焼きのアンガージュマンも、その無際限な継続が等しく許されています。そうでなくとも、ネットにおける言語活動というものは一般に、数限りない自己言及で満たされているものと相場が決まっています。ここで僕が自己言及とみなしているのは、更新頻度の低下を謝罪するような、一種の型ないし様式として要請された身振りのことも含むわけですが、そうした自らのネット上での種々雑多な活動の累積、つまり文章やイラストや動画をアップロードしたとか配信したといった言語行為ならぬ情報行為とでも呼ぶべきものの履歴に対して、常に参照の網目を張りめぐらせながらでなければ一文たりとも書けそうにないというこの感覚は、一体どこから来たものなのでしょうか。その意味を考察することは、これからのネットにおける知的・文化的言説の領域の構築を真剣に考える上で必須の課題となり得るでしょう。
ところで、そう、今自分が書いた言葉で気付きましたが、2014年現在、「ネットにおける知的・文化的言説の領域の構築」なるものの可能性を信じることは、果たしてどれほどまで正当化され得ることなのでしょうか。
そのように問うてみるのは、意外にも僕がその可能性を信じているからです。
「ウェブはバカと暇人のもの」あたりに始まり「ソーシャル疲れ」を経て、「LINEいじめ」に「リベンジポルノ」、「ヤンキー化」、「ネトウヨ化」、犯罪加害者・被害者への過剰なバッシング、挙句の果てには中東で身柄拘束された自称傭兵の日本人の身元をSNS経由で現地の武装組織に報告してしまうジャーナリストなど、2010年代前半のインターネットは「知的・文化的」なものはおろか、それらを成立させるために必要な最低限度の倫理的基準すら充たせないまま、その歩みを続けてきたように見えます。去年の衆議院・参議院での特定秘密保護法可決や、今年の憲法解釈の変更による集団的自衛権行使容認といった安部政権の強権的な動きに絡んで、現在の日本を1920年代後半からナチス党政権獲得までのドイツに重ねる議論まで現れてきているこのきな臭い状況下では、直接的な政治利用の価値にフォーカスしたもの以外にネットの可能性を訴える議論は通りづらいという現実がある。にも拘わらず未だに「ネットにおける知的・文化的言説の領域の構築」を信じるというのは、単純に愚かというか、90年代のサイバースペース華やかなりし頃に思考が逆行していると思われても仕方のないことではないか。「ネチズン」やら「ハクティヴィズム」やらのイメージはもはやネットの現実にそぐわないというわけです。
とはいえやはり僕にとって、否あらゆる人々にとって、インターネットというものは、今でも相変わらず「思考のための道具」(ハワード・ラインゴールド)であり続けている、それもまた事実だろうと思うのです。Googleの検索エンジンのパワーは、過去のそれと比べたとき今日の「知的・文化的言説」にある種のアドバンテージを間違いなくもたらしている。そのアドバンテージが具体的に何であるのかを解明し、さらには過去の理論と実践の積み重ね、伝統や制度にもそれに束縛されることなく接続できるのであれば、たとえその裏側に母なるネットワークに囚われて蹲るデジタル・ナルシシズム(浅田彰)の陥穽が常に潜んでいるとしても、「ネットにおける知的・文化的言説の領域の構築」は単なる夢想ではない、あらゆる困難に抗してでも実現すべき理念の一つとしての姿を現すことになるでしょう。
なるほど、では、インターネットにおける(遅まきながらの)再帰的近代化ということか。たしかにここまで書いてきた事柄は、そうした社会学的な概念によって要約可能な、マニフェスト風の方向付けの雰囲気を漂わせています。そういうわけだから、これはマニフェストではない、と早めに断っておかねばならないでしょう。(どちらかというとこの文章は、一種の詩的な空想の感触を、ドローイングの最初に引かれる、純粋だが頼りない感覚の転写でしかない、あの薄い柔らかい線のようなものを目指している。*1こんなことをわざわざ宣言したりするのも、またいかにもネット的な自己言及の身振りです。)
「ネットにおける知的・文化的言説の領域の構築」は単なる夢想ではない。だとすればそれに向けて具体的には何が可能なのか。まず初めに思いつくものとして、SNSや動画サイトに対抗し、一時的に、ブログ・個人サイトといった古き良きインターネットを想起させる形式を復活させていくという動きが考えられます。いま僕がこうしてブログを書いているのも、そうした動きの一部というわけです。こうしたやり方には、企業が提供するサービス創作支援プラットフォーム*2にできるだけ乗らないようにすることで、デザインやセキュリティ、ひっくるめてアーキテクチャ全般について、自らコントロールできるようになるという利点があります。*3しかしそんなことは僕以外の人が既に考えていそうなこと、というか既に考えている「べき」ことです。たまたま僕の観察する範囲ではこうした復古主義的(?)主張をしている人がいなかったから、*4僕の柄ではないこうした提案も僕がしなければならないような気分になっている、そういう側面はあります。20世紀のヨーロッパに現れた「バッハへ帰れ」や「フロイトへ帰れ」などのキャッチフレーズになぞらえて言えば、「ブログへ帰れ」*5ということになりますが、こうした短期的に見れば反動的とも保守的とも取れる主張であれ、それが公開されて一定の賛同者を得て現実の勢力を形成すれば、それに対する批判と反批判の応酬という形で、ネット上での批判的文化運動の可能性をさらに精緻に問うような議論もできるのであって、その最初のきっかけさえ見当たらない現在の状況はかなり情けないものと言わざるを得ないでしょう。
差し当たり、「いつどこで誰が」という問いの形式から抜け出して、「何をどのように」という問題を立て直し、そこに思考のリソースを傾けることが、こうした可能な運動の最初の理念となるのではないかと思われます。SNSとその派生物の上で演じられたいくつもの悲劇(喜劇?)のおかげで、僕たちはイヴァン・イリイチの言う「コンヴィヴィアリティ」が、原義からすれば*6「わいわい」とやっていくことでしかないということを正しく思い出し、そしてそこに含まれていた多くの致命的な楽観を認識するようになりました。この「学習」の代償は大きかったと言えるでしょう。皮肉にもイリイチが解決すべき問題として訴えた「カウンター・プロダクティヴィティ」がまさに彼の思想の中にも存在したわけです。それではインターネットというテクノロジーのどこに誤算が含まれていたか。おそらくそれはインターネットの一般利用と深く結びついているユーザー・インターフェイスの発展の中にこそ求められます。これまでのインターフェイス・デザインの発展の方向に、人々の間の欲望とそれを背後で規定する社会的なイデオロギーの力が大きく関わってきたということは、ほぼ疑いありません。この道筋において記号と情動の結び付きの強化が推し進められた結果、インターネットはかつて信じられていたその未来の可能性に、深く取り返しのつかない、現実的なものの傷跡を自ら刻み込むことになったのではないでしょうか。多少真剣さを増した語調で言い添えておくと、こうしたトラウマを背負い込んだインターネットという場に、再び「知的・文化的」な人間的活動の可能性を導き入れる契機があるとすれば、それはおそらく何らかの自律性(autonomy)の確立を経由してのことに他ならないでしょう。美術批評の領域でグリーンバーグが範例的に示してみせたように、自律性は批評性を生みます。そしてその批評性こそが、自律性の軌道から逸れていく記号と情動の奔流とユーザーの間に適切な距離を生じさせ、それらをコントロールすることをユーザーに可能とさせるのです。*7
「ネットは終わった」あるいはそこまで行かずとも「ネットは万能ではない」といった類の言葉は、たしかにあなたの人生において無駄なものにかかずらう時間を減らし、あなた自身のための時間を取り戻させる助けとなるかもしれません。しかし「他の世界」(altermondes)を訴える議論が、国際会議などいくつかのポピュラーな場面において有効なレトリックとして機能しているというのに、「他のネット」を求める議論ばかりが非現実的だとみなされるのは奇妙だと言わざるを得ない。「過剰な期待はしないこと」というのは個人に対する教訓としては有効でしょう、しかし社会の全体へと向けたより広い呼びかけとして有益かと問われれば、微妙ではないでしょうか。期待がなければ、積極的な思考など生じようもない。現在の人類にとって、インターネットに代表される情報コミュニケーション技術の系統的発展と有効な利用方法の開発の先以外に、自らの未来の肯定的なヴィジョンを描くための想像上の余白は残されていないと言っても過言ではないのだから、それに対する期待を安易に捨てるべきではないと、少なくともそのようなことは言えるのではないでしょうか。「ネットかリアルか」という単純な二項対立を超える思考に、僕が変わらず賭け続けるその理由は、以上の記述から充分に明らかとなったのではないかと思います。*8
*1:文体が硬くなりがちなのは措くとして。
*2:顕名のアカウント作成が前提となるこうしたサービスにおいては強固なセキュリティが要求され、また膨大な収益が見込めるため個人の手で運営されるということはまず考えられない。またここで創作支援プラットフォームと呼んでいるものは結局SNSに他ならない。SNSとは、創作とコミュニケーションの間にもはや区別が立てられず、良くも悪くも属人的なもの以外の全ての条件がフラットになった象徴的相互作用の空間をいまや指し示している。
*3:もちろん手許にある材料だけで作り上げられたそうした「家」は、もともと私たちが利用していたアーキテクチャよりもデザイン的に貧しいものとならざるを得ないだろうし、さらにはこうしたソロー的、エマーソン的な脱世俗化から得られる最大のメリットであるはずの「孤独」にしても、インターネット上では矛盾した価値しか持ち得ない。「ほとんど誰もアクセスしてこないが、だからといって全くアクセス不能であるわけでもない」という理想には、「接続過剰」の病理とはまた別の病理が巣食ってはいないと果たして言い切れるだろうか。しかもプラットフォームが介在してこない代わりに、サイバー攻撃などの諸種のリスクへの対策は自らの手で構築せねばならないため、喧騒を逃れて訪れたはずのこの「森」で以前より多くの危険に遭遇するということにもなりかねない。この記事で僕はインターネット上での新しい孤立(あるいは吉本隆明や新左翼が好んだ言い回しを用いれば「自立」)の思想を説くような態度を取っているが、実際にはそうした考え方への不信感もまた強く抱いている。
*4:最近になってこうした主張が現れ始めたことを知ったのでこちらに追記しておく。「個人ブログ回帰と「大きなインターネット」への忌避感、もしくは、まだTwitterで消耗してるの?」http://wirelesswire.jp/yomoyomo/201409171500.html
*5:それを言うなら「BBSに帰れ」ではないかという声が上がるかもしれない。リー・フェルゼンスタインがパソコン通信による最初期のBBSをバークレーで立ち上げたのは1973年のことだった。BBSは今日のSNSがその上に立っているヴァーチャル・コミュニティの概念を初めて明確にしたがゆえに偉大であることは間違いないが、それは今日の混乱を予告するような種々の問題を既に抱えていたということを同時に意味するだろう。したがって「BBSに帰れ」という標語を採用することはしなかった。
*6:参考までに辞書で引いたconvivialの項目を。http://www.oxforddictionaries.com/definition/english/convivial
*7:自分で書いていてしかし疑問に思うのは、ここで書いたことが真実ならば、インターネットの上で観察されるあらゆる「反知性主義的」な事件はインターネットの形式的な、すなわちある特定の内在的な条件に従って生起していることになるが、果たして本当にそこに外在的な条件は関わっていないのか、たとえば政治経済的状況の変化といった別種の構造の効果を無視してよいものなのかということである。そしてこうした一連の問いの背景に、僕が最近、アルチュセール主義にアクチュアリティーを感じ始めたという事実があることは、わざわざ述べなくとも想像がつくかもしれない。
*8:最後まで読んだ人が「こんな記事を書いておきながら、それをはてなブログに「投稿」していることは自己矛盾ではないか。既存サービスに自分のコンテンツを乗せるのが嫌だという思想はあまり理解できないが、要するに個人サイトを作りたいということならば黙ってWordPressでもXHTML+CSSでも始めればいいだけのことだろう。」と考えるのが目に浮かぶ。その通りなのだが、何をするにもその手前で自己確認的な文章のようなものを書かずにはいられない、この反復強制、これぞまさに僕が冒頭で述べたネット的な自己言及のあり方の一つの典型例なのだということが、僕がこの文章に最終的に見出す最大の意味作用である。