永い眠りから目覚めて(更新再開)

 ずいぶん長く間が空いてしまいました。前回の更新はちょうど一年前ですか(呆れ顔)。さすがにそろそろ事後報告しなければならないことが溜まってきたのでまとめて報告しておきます。年末ですしね。当然のことながら、断絶した時間を埋めるために書かなければならないことが多くあって、頭を抱えています。まあ一年も放置していた報いですね。なお、一回同じようなリストを作っていたところ、三時間かかってようやく完成寸前までこぎつけたところで、ブラウザ上でページを更新してしまいデータを消してしまう悲劇に見舞われたため、現在だいぶやる気を喪失しております(「消尽したもの」と化しています)。今度は限りなく適当にやろうと思います。まあ後々、手を加えてリンクとかコメンタリーを充実させるやもしれません。一応、自己アーカイヴィングはきちんとやらねばならぬと思っているのです。(といいながら下書き保存ボタンを押す。)
 それにしてもこのブログを見ると何よりも先に言っておきたくなるのは、去年行った二つの展示のことについてですね。この二つの展示は、当時の僕にできることを最大限行ったつもりでしたが、今から振り返って見ると、クオリティについてもコンセプトについても足りなかったと感じる部分が結構目に付きます。
 なのでしばらく展示の写真とかレポートは公開しないつもりです。いずれこれらの展示をきちんと俎上に載せて自分について説明できるときが来たら、そのとき公開しようと思います。その方が批判するにしても有意義に行えそうですし。これからの作品制作から遡行的に見て、これら過去の展示が興味深く見えてくるようになったら、しめたものなんですけどね。上手くいくかどうか。
 さて、それでは去年の冬ぐらいから。


 -ユリイカ11月号「特集*やくしまるえつこ」に「音楽の暗号化――やくしまるえつこの「声」に寄せて」を寄稿。
これは2011年のものですが。今読んでも結構おもしろいはずです。ただ個人的には、いろいろと改稿したい部分もあります。当然ながら。
 -第十四回文学フリマにて『dodecaphonica 第ゼロ号』を発行。「情報悲劇について」という論文を発表。
当時の様子はここで。http://togetter.com/li/299895
 -国分寺mograg garageで開催された『カオスラウンジ vol.4』に参加。「Lesson」という作品を出品。
 -幡ヶ谷forestlimitでの『ラウンジ*カオス*ラウンジPARTY!!』にて即興アンサンブルを組織し演奏する。http://chaosxlounge.com/archives/1201
 -カオス*ラウンジ主催、阿佐ヶ谷ザムザでの『受け入れ展』で、クロージングとして音楽イベント『カオス*アンサンブル』を企画し演奏に参加。ねとかるさんでの告知がアツかった。http://netokaru.com/?p=13242
 -青山ビリケン商会にて『【G*A】受け入れの国のカオス【原画】』展に参加。「Untitled」という作品を出品。http://chaosxlounge.com/archives/1297
 -ユリイカ10月号「特集*ジョン・ケージ」に「「ポスト・ケージ主義」をめぐるメタ・ポレミックス」を寄稿。現段階で僕が持っている音楽批評のパースペクティブをもっとも本格的に論じています。内容に関しての素晴らしい紹介ページはこちら。http://news.honzuki.jp/eureka_4412
 
 -愛知県芸術文化センターで開かれたジョン・ケージ生誕100年記念コンサート 渋谷慶一觔プロデュース 「One(X) Cage→Today」」の準備に協力。公式サイトはこちら。http://www.aac.pref.aichi.jp/bunjyo/jishyu/2012/12cage/index.html 
 「ナンバーピース」と呼ばれるケージ晩年の作品群の楽譜の入手方法や、既存の演奏記録のリストアップ、また演奏解釈に関する情報をケージ研究者のデータベースを参照して調査する。本当に微力ながらといったものだったけれど、こうした画期的なイベントに関われたのを嬉しく思う。しかもこのとき調査したことが、後のケージ論文を書くときの基礎にもなったのだ。具体的には、庄野進が『聴取の詩学』で示したケージの『One3』(何回か改作の行われたあの『4'33"』の最後のヴァージョンとなった曲)についての解釈に対し、オリジナルのインストラクションの内容を調べたおかげで、その観点から批判を行うことができた。各々の作家が持つ「晩年のスタイル」(サイード)には批評的に重要なものが含まれることは多々あるけれど、個人的な見解としては、ケージの「ナンバーピース」は「音楽の外部」の問題と関わるがゆえに今でも重要なものとして広く関心を惹いているのだろうと考える。それも、70年代に書かれたようなサイトスペシフィックな即興性を前提とした作品群よりも「音楽の外部」を意識させると考えられる。なぜそう言えるのか。ひとまず、ケージの作品群全体の中での「ナンバーピース」の位置を探る仕事をどこかで行ってから、それを説明したい。この問題が一朝一夕に説明できるものではないことは、一本まとまった短論文を書いてみたことでよくわかった。
 とりあえず今の段階で目が向いているのは『Ryoanji』における自然物の模倣による音楽の生産の方法について。また『Variations』や『Music for Piano』における版画的着想が、その後のケージの仕事にどのような影響を及ぼしたかという点。版画つまりプリントの技術的・美学的体系は、音楽のそれとは全く異なっているし、何より音楽とは異なるメディアで行われた操作(オペレーション)を、音楽の論理の中に外挿してしまうこと、そのある種の暴力性にこそ、音楽のジェネオロジー(発生学)が、あるいはアドルノが夢見て書けなかったという「音楽の再生産の理論」が隠されているのかもしれない。そのように考えているのだ。
 「音楽の外部」がなぜ必要とされるのか、そんなものがあったところで単に雑音しか生まれないだろうし、何か予想外のものが幸運にも生成されるとしても、それを選別するのは結局、音楽家たちの耳の仕事になるのではないか。だとしたら重要なのは「音楽の外部」などというものではなく、むしろ音楽の内在的な論理のほうだろう。そういう批判がくることは十分あり得るし、それに対する反批判も僕の手で責任をもってかかれる必要があるだろう。上記のような批判にもかかわらず「音楽の外部」は必要であるという点に関しては「「ポスト・ケージ主義」をめぐるメタ・ポレミックス」に部分的に述べてあるので、参照して欲しい。
 何はともあれ「音楽の外部」というテーマはじつはやくしまるえつこ論(「音楽の暗号化」)でも部分的に展開しているし、僕の音楽批評のハード・コアに違いないものだ。(そしてそれは言うまでもなく、東浩紀の『存在論的、郵便的』以降の情報技術を唯物論的かつ精神分析的に取り扱っていく仕事、それに佐々木敦の『テクノイズ・マテリアリズム』『テクノ/ロジカル/音楽論』で示された実験音楽エレクトロニカの質料性という図式に影響を受けたものであり、またそれを批判的に引き継ぐものとして構想されている。)そういうテーマが生まれてきたのは僕自身が熱心な音楽リスナーであり、同時に創作を試みては失敗し続けるものであり、またよくいる頭でっかち気味な若い批評の読者であったことに由来するだろう。僕がそういう存在である限り、この音楽批評のプロジェクトは新しい領域を見つけては更に展開され続けることになると思う。
 何にせよ重要だったのは、こうした野心的な演奏会の企画に関わらせてくれた渋谷慶一郎さんの寛容さだった。この場を借りてお礼を言います。
 
 -はるしにゃん主催現代思想を殺す会」の第一回でニーチェ道徳の系譜学』を議論する。記録はこちら。http://togetter.com/li/402512 
 そして第二回でローティ『偶然性・アイロニー・連帯』を。こちらは僕もかなり発言しました。http://togetter.com/li/402243 
 さらに第三回ではドゥルーズ『意味の論理学』を。これは僕がレジュメを切りました。この読書会はこれからも継続して参加していく予定。
 -第十五回文学フリマにて『反=アニメ批評 2012autumn』にて座談会「アニソンにアニメを観る、アニメにアニソンを聴く」に参加。サウンドトラック的なものの本質を突き詰めていくものとしてのアニソン論。http://animerca.blog117.fc2.com/blog-entry-43.html
 『Rhetorica #01』の座談会「キャラクターの用法」に参加。http://web.sfc.keio.ac.jp/~t10170to/rhetorica/special/ 二つとも成上友織さんと同席しているのが印象深い。
 また『Project AMNIS vol.1』に「ある小規模な錯乱――Skype通話について」を寄稿。「メタ聴覚文化論」と名付けていますが変態私小説の類ではないかと思われ。http://lamer-e.tv/amnis/
 だいたい以上のような感じですね。
 まだあったかもしれないですが(小さなオフ会の類や、シンポジウムへの凸など・・・・・・そう考えるとはるしにゃん関連は特別扱いということになりますが)、あったとしてもかなり小さいことだと思うので、まあいいでしょう。
 先のことですが、
 -2012年冬コミで発表のはるしにゃん編集『イルミナシオン』にてカオス*ラウンジの三人と僕、それにはるしにゃんを加えた座談会が掲載されます。文字起こしの際に省略しまくって、はるしにゃんに怒られたりしましたが、なかなかオモシロコンテンツになっていると思います。冬コミではぜひ手にとってみてください。
 さてこうして書いていると年越し感が強まってきて、自然と来年の抱負なるものが口をついて出そうになるわけですが。
 とりあえず僕は、来年も今年同様に、ますます殺気立った年になるといいな、というかなるだろうな、と思っています。日本全体のことを考えても、僕の関わっているいくつかの界隈をみる限りでも、平和だったかつてのように「議論のための議論」や「分析のための分析」をしていられる状況が急に再び訪れるとは考えづらいので。僕が求めている知的興奮の類にしても、結局はそういう殺伐としたところからしか生まれないようですし。
 具体的に僕自身がどうするかを述べれば、もう少し活動的になろうと考えています。(いつも言っている気がするが。)少なくともこのブログを論争のために使用できるぐらいには・・・・・・論争という言い方が物騒なら、対話と言い換えてもいい。ネタはたくさん温めてあるので、後は自分の筆力次第だろう。完璧主義というか、変な自意識がらみの筆の重さを直していきたいところです。沈黙しているうちに読者との回路を失うことだけは何としても避けねばならない、と。
 なんにせよ、声を投げ返してくれる読者の居ないところで書くことはもうできなさそうだ。
 声のあるうち声の中を歩め。
 ということか?