【展示告知】 「Consumer-Generated Orgia展」、開催します!

 さて、8月9日(火)から8月13日(土)にかけて、多摩美術大学で、僕のキュレーションで 「Consumer-Generated Orgia展」というグループ展示を行います。
(追記:この展示の企画責任はキュレーターである僕にあります。以下に述べますこの展示の概要を読み、なんらかの質問や苦情をお持ちになった方は、以下の公式メールアドレス consumergeneratedorgia@gmail.com ないしツイッターid;@sensualempire に連絡ください。積極的に対応したいと思います。)
 この展示はニコニコ動画の動画作家たちをビデオアーティストとして美術のプロパーな世界に紹介しようというものです。
 

 ところで、ニコ動のMADをビデオアートとして展示するというある意味安直極まりないことを確信を持って行うわけですが、そうは言ってもビデオアートにはビデオアートの正統な歴史が、ナム・ジュン・パイクだとかブルース・ナウマンだとかビル・ヴィオラだとかあり、そこに何の考えも無く「人類には早すぎる動画」を持っていっても、理解を得られないまま終わることは明白ですし、さらには「こんなものあったよ」といって大英博物館帝国主義のもとニコ動の動画を勝手にパッケージングして持っていってウケるか試すというのも、自分の所属する文化をいやしめているようなものだし、何よりネット特有の表現をその文脈から引き剥がしてしまうわけで問題があると考えました。
 そこでこの二重の問題を解決する上で、この展示では、通常のビデオアートの展示方法で典型的な、ビデオやHDDなどに保存されることで記録メディア上での物質性を与えられ、プロジェクターやモニターを用い、個別作品ごとにループ再生で上映する、という形態を避けることにしました。代わりにネットにつながったノートPC一台を置き、そこに置かれたリンクそしてキャプションと解説代わりのテクストデータを見ながら作品を「閲覧」していってもらう、という形態を選ぶことにします。展示空間と呼ばれるものを、PC(無論それはタブレット型デヴァイスでもいいのであって、要するになんらかのオペレーティングシステムやブラウザソフトがあればいいということです)内部の仮想的な空間に置き換えてしまう、というわけです。
 無論、それはネット上に公開されたリンクを個々人がそれぞれのデヴァイスと回線から勝手に見ることと事実上なんら変わりはありません。このブログでも、展示で紹介している作家の動画へのリンクやそれへの解説は後々アップしていくつもりですが、何にせよそれは通常の一般的インターネット利用の範囲を出るものではありません。そういう形態には、二重の問題への解決ということで、二重の意味があります。まず第一には既存のビデオアートの文脈に対し、その展示方法の保守性への疑義の提出を行うということ。
 パイクの彫刻的ビデオインスタレーション以来、磁気による歪曲などを含めビデオの物質性を何らかの形で表現に組み込んでおくことは常識のようになっていましたが、少なくともゼロ年代以降は、インターネット動画投稿サイトの登場とそれにあわせたハンディカム自体のデジタル編集への親和性の向上により、いわゆる物質性を問題にすることが相対的に重要で無くなったと言えるのではないか。むしろ、いくつかの静止画にあわせてそれと全く無関係に音楽が流れる動画や何らかの作業や行為をスライドショー的展開で説明する動画なども含め(youtubeを参照せよ)、音楽や文字情報の媒体として、その包括性の高さから映像メディアが選ばれているという現状が重要なものとして浮かび上がってきています。またピピロッティ・リストなどを代表格とした、いわゆるジェンダーや人種、階級、宗教の問題など政治的テーマを扱う場合であっても、ネット上の映像がそれによって呼び起こすorgia(狂乱、酩酊)を無視してその問題を考えるのは難しい。(例えば、日本に関して言えばつい最近、尖閣諸島での海上自衛隊と中国漁船の接触事故の動画流出が大きな騒動を巻き起こしました。動画はスキャンダルを、人々の政治的感情のトリガーになりえます。それらは動画投稿サイトにおいては日常的に見られる光景です。)このように考えればネット上に発表された動画をネットを通して見るのは、媒介された鑑賞であるどころか、その本質的な文化的文脈性までも含めた上での閲覧行為として、新しいビデオアートの鑑賞スタイルとして、この上なく正しいものであるとすら言えるのではないか。そしてそのような新しい鑑賞のスタイルにおいては、過去のビデオアーティストやハイ/ローを問わないさまざまなジャンルの作り手による動画たちを、これから紹介する動画たちとフラットな(平らな、すなわち公平な)基準の下共存させて評価することが出来るようになるでしょう。ブルース・ナウマンの引き伸ばされた「サイコ」(←これはダグラス・ゴードンの「24時間のサイコ」の間違いでした。)やウォーホルの反復される「キス」の映画、そこに「人類には早すぎる」タグや「見てるだけ」系の動画があるいはまだ見ぬ奇妙な動画たちが並ぶのは想像するに刺激的未来です。ニコ動MADのビデオアートのプロパーな文脈への接続という第一の問題へは、まずこのようなビデオアートを取り巻く全般的な鑑賞スタイルと、ジャンルの包括性への問題提起として応答しようと考えました。それが実際の展示空間でどれぐらいうまく行くかは分かりませんが、ともあれ、むしろこの問題は、これから述べる第二の問題と、そこから導かれる「MADにおける表現」は何かという問いと不可避的につながっており、その意味では第一の問題といいつつも副次的な問題でしか無いのです。  
 
 さて長くなりますが、その第二の問題です。それはネットにおける「表現」(「創作」とは区別されます)を尊重する方法上の問題であり、潜在的にはネットカルチャーにおける広義のコピーライトの問題に関するものです。2005年の「のまねこ騒動」はキャラクターを巡る企業と匿名のネットカルチャーの間でのコンフリクトの最初の大きな事例でしたが、そういったネットの外部と内部でのコンフリクトという問題とは別に、この数年間外部とは無関係にネット内部において、さまざまな「トレス疑惑」「パクリ問題」のコンフリクトがひっきりなしに生じてきました。その結果、この手の問題に関する過度に攻撃的で殺伐としたムードがネットの内部でこそ醸成されてしまったという現実があります。要するに現在、初期の2chなどで起こった数々の事件がネットユーザーの娯楽やストレス解消のはけ口になったのと同じように、「パクリ問題」を筆頭とした問題系はネットユーザー達のネガティブな感情が集約しやすい「一大ジャンル」になってしまっているような状況になっていると考えられるのです(通常のコンテンツの消費をポジティブな消費とすれば、これはネガティブな消費だといえるのかもしれません)。実際に何かを作った経験のある人であったら、例えば音楽なら、コード進行はそもそも既存のものを使わなければ奇異な感じで響くことは常識であるし、メロディーラインにしてもそのコードに沿って違和感が無くかつ反復を含んだ覚えやすいものなどとなれば選択肢が限られてくることなどは常識なわけですが、「パクリ問題」ではそういった作り手なら即座に理解できる常識を無視されて、偶然の一致に過ぎないものが、詳細な検討も経ないままに、消費者たちの側から曲自体の価値を貶める「剽窃」ないし「盗作」と呼ばれ中傷されるということが起きます。これと同様の非難が、絵画においては「トレス」、文章表現においては「コピペ」といったように、ほとんどテンプレート化、コード化(規則化)された語り口と単語でもって語られます。この形式化された反応とその矛盾がこの問題への解答を難しくしているのですが、ところでまた、それらがネットユーザーの操作するデヴァイスの機能(例えばパソコンのコピーアンドペースト機能)に依拠した表現であることには注意が払われるべきでしょう。彼らは例えば音楽における既存のメロディの逆行形だとかリハモナイズだとか、メロディの部分的引用だとかには一般的にほぼ無頓着です。暴走P(cosMo)による有名曲「初音ミクの消失」の冒頭のオルゴールのメロディは、同じく有名曲である「初音ミクの暴走」のサビメロディを変奏気味に盛り込み、曲同士の物語的なつながりの表現となっていますが、それを指摘するコメントは殆ど現れず、むしろ「初音ミクの激唱」における音ゲー曲「ニエンテ」へのオマージュを「パクリ」と批判する事へ労力は向けられるといった具合になります。また別の文脈から言えば、「アンチ」と呼ばれるものには、あるコンテンツに不満を覚えた消費者達がネットワークを利用してその不満を共有しあい、場合によっては、それに満足しているファン達に自分達の不満を表明するこし二次的な満足を得ているという側面があることを指摘できますが、「パクリ問題」とそれに準ずるネガティブな消費のジャンルでは、そのような消費のネガティブさをポジティブな消費との間であいまいにし「祭り」と呼んで見せる事で、そもそもの不満を持たない人間すら全体としてのネガティビティの表明の流れに動員することを可能にするということがあります。「パクリ問題」に準じたネガティブなジャンルでの「消費者」としてのネットユーザーの振る舞いは、素朴なコンテンツへの不満を前提とした「アンチ」とは異なり、批判のための口実を「パクリ」という彼らからすれば客観的な理由に置き換えることで、より脱根拠化され形式化された、要するにより内容を無視してコード化された反応だけで構成可能なものとなったのだといえるのです。総じて、「消費者」達の批判は形式化された「消費者」同士のコミュニケーションとして、「消費者」自身に分かりやすいデヴァイスに基づいた比喩や論理を恣意的に適用することで組織されていっていると言えます。
 さて僕が紹介しようと考える動画作家たち――具体的に言えばそれはニコニコ動画のMAD動画周辺の作家たちなのですが――は、こういった多かれ少なかれ脊髄反射的な「パクリ問題」を唱えたがる人たちから見れば、全く創作の範疇には置けないものとみなされることにもなるでしょう。あるいはそれら著作権的に旗色の悪いMAD動画群たちを「作品」と呼び、その製作者である職人達を「作家」と呼んでそのオリジナリティーに帰するようなことをすれば、僕こそが「パクリ問題」の標的とみなされ、攻撃されることがあるのかもしれません。第二の問題の具体的問題はそこであり、そしてそれへの応答としてこの展示形態の第二の意味が生まれます。今回の展示で僕が一時的に提供する「内容」は、まずインターネットを閲覧可能なPCとその内部のオリジナルなデータ、またそれによって飛べる一般的に公開された動画サイトのページであって、それらは「一般的」に行われているインターネット利用の一例以上のものではありません。よって「一般的」なネット利用がそうする以上に誰かの権利を害するなどというのは、それが「一般的」なネットユーザーのPC利用形態を単にギャラリーに持ってきただけである(のは既に述べたように美術的な意味があるわけで美術的な内容の無さから前もって批判することは無理筋であることは言うまでもありませんが)ということから、殆ど考えられないことであると言えます。つまり権利とか道徳の問題という「パクリ問題」での消費者達の発言の根拠になっているようなものには、内容レベルで考える限り一切抵触するものは無いわけです。なのでこの展示での第二の問題への応答は、本当のところ潜在的なものであって、ある条件が満たされたときのみある種の社会実験的な形で現れるものであると言えます。実験の条件とその予想される帰結はこう要約することが出来ます――「もしこの展示が批判にさらされるようなことがあるとすれば」、そのとき、「ある種の表現が作品として扱われるというその事実自体が、その表現の深いレベルでの主張とは切り離されて誰かの権利を侵害するものとして告発されていることになる」。それによって「パクリ現象」全般における形式的で脊髄反射的な反応の存在をこの事例で示すことが出来るでしょう。そうなればこれらのネガティブな問題系では、そこで販売が行われていたかとか悪質性が認められるかといった内容レベルのこととは無関係に、「消費者」としてのネットユーザーの無関心と、「作品」と呼ばれるものの成立を規定する諸々のコード(規則)の既存の配置が絡み合って、「神話」として、炎上現象(むしろ炎症反応を想起させます)が引き起こされているのだということはより説得力を持ち始めます。つまりMADのようなものを「作品」とみなすこと自体が、その内容や表現とは全く無関係に、消費者達に「作品」とはこれこれこうあるべきものであってMADは「作品」ではないという「神話」を語らせることになり、そしてネガティブな消費を行う根拠を形式的に構成可能にさせることになるのです。だからこそ、MAD製作者たちは現場であるところの動画サイト上では「職人」という呼び名を頂戴していたりするわけですが、しかし実際には単に作品の背後にそれがいることが前提となっている「職人」を超えて、「またお前か」と認知されるまでに至った強い個性を含んだ動画を投稿し続けているわけで、そこに至っては彼らはもはや「作家」と呼ばれてしかるべきと考えられるのではないでしょうか。
 話がそれましたが、とにかく、彼ら動画「作家」たちを「作家」であると認めること、そしてその過程としての展示において「一般的」なインターネット利用の範囲を逸脱しない範囲での閲覧環境を展示空間として用意していること、また展示に当たってキュレーターである僕は「作家」たちに全く連絡も何もとっていないが、そもそも連絡をとる必要もないほどにその閲覧形式が「一般的」であるということがその行動の根拠となっているということが、第二の問題に応答した内容を形成しているということになります。ここまで僕は「消費者」達についてわりと批判的な調子で書いてきましたが、しかしながらこの展示形態は同時に、「消費者」達の行う微細な単位での表現行為、ないし「生成」から表現はもう一度立ち上げられるべきではという意図が含まれています。インターネットでは販売目的ではないというエクスキューズの元、アイコンや壁紙に既存の他人の創作物データを無許可で利用することは日常茶飯事となっていますが、それによって開かれたのは純粋に記号的に自己を表示すること、直接的なコンテンツの参照性によって円滑化されたコミュニケーションといったことなどです。それらにはコミュニティ全体にとって多くのメリットが含まれており、コミュニティの中から表現行為が立ち上がってくるときの足がかりになる基礎的なコードを形成するものと期待することも出来ますが、そうであっても、同時にそこでの無断利用は権利的には、肖像権など考えれば分かるとおり、著作者の権利を侵害する可能性が十分にあることが明らかです。にもかかわらず営利目的でないそれらの行為には権利者へのリスペクトが含まれているから許されるのだという論理は、実際のところ全く「消費者」の側の勝手な考えであり、と同時にその権利者すなわち作り手の側まで含むほどの多数派の妄想なので、結局事実上正しい論理となっているわけです。このことは両義的で、実際そのような多数派としての「消費者」に作り手も重複して含まれている以上、作り手達も消費者達のその身勝手な論理を承知で受け入れている以上、立場上「消費者」を否定しきれないところがあります。同人という場所の特殊性もまた示しているとおり、そこでは作り手と「消費者」のおそらくは生産的で幸福な共犯関係が存在しており、それがまたネットカルチャーの生産性と結びついて機能している。だからMAD製作者も含めほとんどあらゆる「消費者」が既に権利侵害者であり誰かを法的にも道徳的にも傷つけていることは否めないが、かといって生産性の観点から言えば一概に「消費者」の論理を否定することは出来ないし、むしろMADの作家達などにおいてはその共犯関係の論理に純粋にのっとって自身の表現を形成しているのだからそれはまず汲み取らねばならないとなるわけです。その過程で、炎上を加速させる「消費者」達と通常の作り手達そして「作家」としてのMAD製作者達に、区分けを設けず全てを一般的なネットユーザーとその行動形態として平等に捉え返してみること。そのためにも、単なる一般的ネット利用空間としてCGO展の展示構成は構想されています。

 しかしながら、結局、大多数の「消費者」、いや「生成的消費者」(コンテンツを消費しつつそれへのコメントやレスポンス的作品を作り、現在的な祭りの時間を維持していくものたち)が快く認めたものが作品あるいはそれに準ずるものとして場所を与えられ、不快であると判断したものはどんな恣意的な理由であっても論理的に正しく制裁されたかのごとくその場所を奪われるというのが、ネットにおける「作品」の現実的状況であるというのは、揺るがしがたいものなのでしょうか? 抽象絵画や前衛的芸術運動全般を「退廃芸術」として弾圧したナチス、「形式主義」として批判したスターリニズム、無論、戦時中の日本の全体主義も含め、20世紀の歴史における表現の歴史を振り返るのであれば、社会に対する誠実な表現に対し恐れを抱くのは体制と、そしてそれを支持する「大衆たち」だったわけで、(ナチスでもソ連でも、こういった芸術は「大衆」の理解を遠ざけた高踏として批判されました。プロバガンダは常に「大衆」のそばにあり、真摯な表現は「大衆」とそれら表現との結託を恐れる体制側による制度的なコードの中で、さまざまなレッテルを貼りや直接的間接的弾圧を経て封殺されてきたわけです。)生成的消費者達が「制度」の見えない網目の中で、「制度」にとってそしてそれが依存しあうところの「大衆たち」にとって不都合なものに対し、その生産性を抑圧的な方向に捻じ曲げて用いていくのはあまりいいこととは言えないでしょう。(ここで「制度」そして「大衆たち」を括弧でくくるのは、それらが文字通りに想像されるものとは微妙に異なるからですが、何にせよ、「制度」にとって都合のいい「カウンタカルチャー」というものすら、共犯関係に満ちたこの社会ではありえてしまうわけで、その意味でも表現の内容をまず探求するということはますます重要になっていると考えられます。)

 生成的消費者は、自身が属する「神話」的な環境とそれを支えるコードが破壊されることを恐れていますが、同時に生成的消費者の内部では既にそれが「神話」的に一体化していくことへの疑念はさまざまな形で表現されつつあると感じられます。その疑念は時に、神話的環境で行われる記号的コミュニケーションを極度に誇張するという形で表現され、ある種のMADを生み出すことになります。これらの特殊なMADは生成的消費者の自己を傷つけつつ再生産する過程を反復して、「匿名的」かつ「作家的」な、ある種の矛盾した形式を獲得します(これが「作品」と呼ばれるとしたら、その体裁上の矛盾はさらに増大することでしょう)。この表現は手の込んだ「釣り」だとか「人類には早すぎる動画」表現として実現され、さまざまな種類の「アンチ」を大いに呼び寄せることになるでしょうが……そこで彼らがきっと最終的に呼び寄せているのは、すなわち彼らの表現の生きた文脈でありその「内容」をなしているのは、「生成的消費者」の矛盾した興奮そのものなのです。彼らはネガティブに攻撃して見せるときもっともストレスの少ない快楽を得て、ポジティブに何かを消費しようとすると苦痛や責任を強いられる。ネガティブな攻撃が極限まで自己目的化し、快楽に変わるとき、「例のアレ」は一種のorgicなエンターテインメントになります。つまりポジティブなものになります。不愉快さは快感に、攻撃は愛着に変化する。反対にポジティブな消費は「萌え豚」の叫びのアイロニー、あるいは売りスレ民の神経症として形成されてゆき、「神作品」とそれを作り上げる「神」のイメージを作り上げ、「傑作にアンチはつきもの」という本質的に矛盾した定型句でもってストレスを資本蓄積し、「パクリ問題」においては堰を切ったように「作品」ではないものへのネガティブな攻撃性へ転化していきます。ですがそのような循環的な過程全体が、生成的消費者に与えられた前提条件であり、そこから、そのorgia(オルギア)の中から、その生産性に賭ける形で現れたMADの表現を見ていくことが初めて可能になっていくのです。


 

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〔……欺瞞は退けられねばならない。《同人結界》を張ることによって、商業作品の持つさまざまな形式上のしがらみから開放された自己の創作の領域を純粋に確保し、さらにはそれを基にした他者の創作の領域を「二次創作」として広く開放する、というのは作り手にとってすばらしい環境ではある。だが同時にそれは制度の中で穏当に骨抜きにされた表現という地位に甘んずることでもあって、それが結局は、例えば非実在青少年問題で二次元の表現が単なる猥雑な娯楽でしかないとみなされたとき、反論のための説得力ある根拠を提出できなかった遠因ともなっていないだろうか。《同人結界》の内部では、いくらでも自由に創作が出来る、ただしそれは、それが「一次創作」としての権利、オリジナルな主張というのをあらかじめ権利上剥奪された「ファンの遊び」としての「二次創作」であることを作り手が認める限りである。そこではもはや公式設定と非公式設定という厳格な区分が生まれ、非公式設定はあってもなくてもおなじようなものとして扱われることが望まれるようになり、結局のところすべては作り手の自己満足であるということをルール上納得させられることになる。つまり作ること自体がまず第一の満足なのであると、強制的に納得させられるのだ(だからこそ営利目的である商業とは区別が可能になっている)。そこには既に、表現を行いたいという欲望は認められていない。《同人結界》の定義において、「創作」という言葉が用いられても「表現」という言葉は用いられないことに注意しよう。なぜなら《同人結界》内部では作り手たちは「創作」行為に純粋に自己満足しているのだという建前上の理由の元、その外の世界から不干渉であることが出来ているからだ。そして《同人結界》内部の消費者たちは対照的に、これまた自分の欲望に従って作品を選び解釈し消費する。まるで商業作品を楽しむように同人作品は消費されるのであって(そして同人作品のような商業作品にも人気が出始める、結局見たことのあるものに似ていることで理解しやすくなり消費しやすくなるというプロセスがあるわけだが)、作り手の側の意図を第一に量りつつ消費されるなどということは起こらない。作り手の意図を考えるとしてもそれは単に自分に見える側からの勝手な解釈の域を出ず、なにより商業作品においてそうするように解釈することを求める消費者達(「商業クオリティ」が褒め言葉になる)にとって、商業のように作り手のどうでもいい表現的なタッチが残された作品はその手の趣味がある人間以外にとってはどうでも良いものとなるのだ。そして《同人結界》内部で仮に一次創作を作るとしても、それは、二次創作で許されていたように誰かの作品に似ていてはならない、なぜならば二次創作であると同時に一時創作であることは権利上不可能だから、という論理。一般に、何らかの真摯な表現を行おうとするとき、その作品は特定ジャンルのファン層を超え出ようとする限りで一次創作になろうとするだろうし、同時に、真摯である限り目の前の現実を無視することはできないという意味で、何らかの現実的対象に対しダイレクトな言及を行おうとするだろう。(つまり商業漫画に見られるような、商標などの固有名詞の意図的なもじりは本来ならば避けられるべきものである・・・そういった真摯さの表明を怠ったことで、エロマンガは現実との対応を持たない単に性欲処理的なファンタジーとみなされ、と同時に翻ってその内容においては幼女キャラクターの絵が現実の幼女というカテゴリーへの言及とみなされ、無意味に欲望を刺激し性犯罪を助長するという恣意的論理を受け入れさせられることになるのだ。)しかしともあれ、《同人結界》に深く慣れ親しむことに成功したとして、その結果、《同人結界》のいわば境界線上に立って、いわゆる商業でも制度的コードに自ら従属している同人でもない中間的な場所、仮定されたどこでもない場所でこそ可能な表現を真摯に試みようとする人たちへの無理解が、殆ど反比例的な無理解が生じるのだとしたら、それは本当に嘆かわしいと思える。境界に立つことはいつでもはた迷惑なことだが(例えば国境)、それでもなお境界に立たねば表現できないことがあるからこそ、そこに立つことになる。何より、それら境界に立つ人たちは、この《同人結界》に属する作品を多かれ少なかれ愛している人間達であるだろうし、仮にそれらをコラージュしダイレクトな言及の対象とするとしても、それは愛着の表明の意図としてのダイレクトな言及であって、批判や憤激とは明らかに異なるものとなるだろう。それに《同人結界》内部でその論理に従い続ける人間が、その境界に立つ人間よりこれら文化を愛しているなどとアプリオリに言える理由はどこにも無いのだ。少なくとも表現とそれが参照するものに対する愛の次元に関していう限り、《同人結界》のルールは無関係だし、そもそも《同人結界》は創作を社会の制度の上で即物的に可能にするだけで、表現を可能にしてくれているわけではないということも既に見てきたとおりだ。むしろ表現の重要性を下げていくことで、社会的な弾圧に対して返答することすら忘れる結果になってしまったようにも思える。実際そんなときには、境界に立つものたちは積極的に敵地に乗り込んで彼らの愛するもので敵の制度内部を埋め尽くして、敵の言説の論理的矛盾を突くことを実行した。何はともあれ感情の次元で言うならば、そもそもそのように愛着の表明として行われていた直接的言及であるところの表現を、部分的に切り出して敵意の表明と見えるように意図的にコメントを付してコラージュしていたのは、そこに悪意を添加していたのは誰であっただろうか。コラージュという手法を真に悪意をこめて使っていたのは誰であったか。無論全てが悪意であったなどと断定することはできないが、事実を追っていけばどのあたりで誰かが悪意を添加し始めたということはわかるはずではないか。しかし私たちは、「生ける現在」に、そしてそこでのorgiaにどっぷりとはまり込んでいるために……〕

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 何はともあれ、CGO展はそのような意図の下、表現的な行為をあらためて目指して、一般的な方法で「動画作家たち」を紹介することを目的としています。それで肝心の作家たちですが、ふに、bonosan、自動販売機の中の人、ハワイ、もこう、高橋邦子、逆輸入P、Pマンといった人たちの動画を紹介します(ここまでの文章を読んだ人が、このラインナップを見てどういう顔をするか、ちょっと知りたいですねw)。いずれ解説付きで作品リストも投稿したいのですが、まあとりあえずは展示に来てもらうことを優先する次第です。知っている人にとっては、おそらく、本当によく知っている動画だと思うので、その感覚としては古典的な絵画作品を現物で見るのに近い感覚だと思うのですが(とはいえネットで見てても現物なので、これらの動画には現物しか無いのですが)、とにかく重要なことはネットにある作品に直接言及しそれを作品とみなし表現の歴史の中に置きなおすことを可能にし、なおかつその文脈性も断ち落とさないようネット上での一般的鑑賞をそのまま展示として提示するということ、です。ですから勿論、彼らの作品をDVDに焼いて販売するとか、そういうことは全く考えていません……彼らの作品はインターネットの中でこそその真の凶暴性、表現性を発揮するのです。芸術にとって、という言葉はこの際どうでもいいので、現代的な創作行為そして表現行為にとってと言いましょうか、それらにとって、販売するとか権利を守るとかは二次的なことなのです。というのもベンヤミンの整理を待つまでもなく作品の展示価値ないし商品価値をその価値の全てとみなすことはないし、権利については、語源的に言えば権利rightとは正しさで、結局後々誰かに反論したり請求を行ううえで大義として立ち現れてくるものが権利であり、そもそもその定義自体が事実関係や法の適用を含め論争=吟味を経て決定される類のものである以上、事前に全てわかるものではなく、また現実にまず怒りに火をつけるのは既に見たように権利ではなく、既に見たように最初の「何かそう呼ばれてはならないものが『作品』と呼ばれていることに対する脊髄反射的拒否反応」そのものでしか無いのだから、さらに言えばその反応が第三者により恣意的に添加された悪意によるものだとしたら、それら全ては表現の第一義的存在意義の前ではどうしたって二次的なものにならざるを得ない。しかし考えてみれば、表現が無ければ人間同士のコミュニケーションとしての文化はありえないのだから、それを前提としている販売や権利の問題に対し、販売以前、権利以前の表現が「権利上」先行するのは妥当なことではないだろうか。とはいえすでに述べたように現実はそのような順序だったものではないのでしょう。(こういうテーマについてそれこ高橋邦子さんとかがいつもの社会派的調子で作品化してくれないかとむしろ思う。)

 以下の宣伝用PDFには彼らの作品のサムネイルがツイッターアイコンと同じノリで無断利用されていますが、もちろん!全てリスペクトした上での非営利的利用となっています(そうでなきゃそれで展覧会など開催しないですよね)。ぶっちゃけた話、これに対するバッシングというのが一番来そうだな、と思っていたわけですが、これは作品でも販売する予定のものでもなく、単なる「私的広報」とでも言うべきものです。この画像を見て、何かピンと来るものがあれば、8月9日から13日のどこかで、八王子の奥地に来て気ままにインターネットサーフィンしていただくのがいいのではないかと思います。それで何か感じて帰ってもらえれば、少なくとも僕は(「作家」たちにとってはいつもとなんら変わり無いわけですが!)それだけでうれしく感じます。



追記:最終日の13日にはクロージングパーティを予定しています。ネット界隈的にはアツい感じのゲストを呼べるかもしれません。呼べないかもしれません。一応飲み物とかは用意する予定です。

再度追記:(追記:このエントリの上の方にも書きましたが、この展示の企画責任はキュレーターである僕にあります。以上に述べましたこの展示の概要を読み、なんらかの質問や苦情をお持ちになった方は、以下の公式メールアドレス consumergeneratedorgia@gmail.com ないしツイッターid;@sensualempire に連絡ください。積極的に対応したいと思います。)